
古墳時代、毛野川(現在の鬼怒川)に注ぐ大河であったが、江戸時代の利根川東遷事業より後は利根川に注ぐ川へと変更された)流域一帯には毛野国が成立しており、ヤマト王権において毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並び強大な発言力を有していたとされています。
古代・邪馬台国の時代(神代)には毛人が住む地域であったと解されるのが一般的であるが、その後、第10代天皇で真の意味でのヤマト王権の初代開祖とも言われる崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命が父の命でこの地に入って毛野国を建国し、その後毛野国の有力豪族となった毛野氏の祖となり、ヤマト王権において有力豪族の一角をなしました。
毛野国は奈良時代には上毛野(上野)国と下毛野(下野)国に分国されたと言われるが、毛野川は上野国を流れておらず、上野国を流れるのは利根川であることを鑑みると、この説も定かとはいえない。
国造は下毛野君だといわれます。
大和朝廷は701年に律令を定める(大宝律令)が、これに先じて朝廷は下毛野国から下毛野古麻呂を呼び、古麻呂は藤原不比等とともにその編纂に深く関わりました。
栃木県の県庁所在地である宇都宮市の名称は二荒山神社の別号宇都宮大明神に由来し、宇都宮の歴史は即ち出雲神を祀る当神社の歴史と言えるでしょう。
この神社は毛野国の開祖である豊城入彦命を祀っています。
創祀は命の曾孫である奈良別君と言われるが、この時既にこの地には豊城入彦命によって国土開拓の祖神・大物主命が祀られていたと言われており、西暦200年代、遅くても300年代(社伝では仁徳天皇41年、西暦353年=奈良別君の時代)には成立していたと言われています。
平安時代、当神社は延喜式神名帳に下野国唯一の一之宮名神大社(河内郡)とされ、下野国で最も由緒正しい格式ある神社と位置付けられていました。
神社は国造下毛野氏の統治下にあって下毛野氏の血縁者が代々座主を務め、平安時代末期に藤原北家道兼流で毛野氏あるいは中原氏の流れを汲んだ宇都宮氏がその座を継いだと言われています。
宇都宮氏は鎌倉時代以降22代500年に亘って鬼怒川流域一帯を統治し、小倉百人一首の成り立ち、宇都宮歌壇の成立、東勝寺や尾羽寺、清巌寺や興禅寺に代表される寺院の造営など当地の文化的素養の養生に尽力するとともに、また元寇の折には鎌倉幕府軍総大将として討伐に向かい、関東内の戦乱にあっては時の中央政府(鎌倉幕府、室町幕府、鎌倉府、関東管領等)の意向を受けてその鎮静に当たり、武門としても当時の関東地方の治安維持に貢献しました。
宇都宮二荒山神社は宇都宮大明神と呼ばれ、古来からその武徳が尊ばれてきました。
藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太,田原藤太)卿は、平将門の乱の折、その追討を命じられたが苦戦、当神社に参じて授かった霊剣をもって将門を制したと言われます。
また藤原北家長家流・那須与一宗高は源平合戦屋島の戦いで「南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神」と唱え、見事平家船上の扇の的を射落としたと言われます。
また元寇の際には社殿から鏑矢が西へ飛び去ったという言い伝えが残されています。
この他、源頼義、義家(八幡太郎)父子は前九年の役の前に参拝し、奥州安倍氏を掃討したといい、また源頼朝も奥州藤原氏平定に際して参拝したとされます。
徳川家康は当神社に広大な土地寄進を行ったと伝わっています。
一方、下毛野国と那須国は7世紀後半に統一されて下野国、すなわち栃木県の現在の形が作られました。
下野国は9郡(足利郡、安蘇郡、梁田郡、都賀郡、河内郡、芳賀郡、那須郡、寒川郡、塩谷郡)に分かれ、政治の中心として国府が置かれました。
国府付近には、国分寺・国分尼寺・下野薬師寺がつくられ、都から伝えられた華やかな文化が開花しました。
日光開山の祖と知られる勝道上人は、下野薬師寺で5年間修行した後、二荒(男体)山頂を目指して日光に入り、766年対岸に輪王寺の起こりとされる四本龍寺を建立、日光山を開きます。
782年には、3度目の試みで山頂に達し、その後、神宮寺(現在の中善寺)や二荒山神社を建立、日光1200年の原点を築きました。
「日光」という地名は二荒(ふたら=補陀落:ポタラカ)を音読した「にこう」に佳字を当てたものといわれています。